古市の歴史
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養蚕大打撃

 古市村(古市小学校区)では、昭和初期までは養蚕事業が行われ、農家の副業として蚕を飼って生糸の材料になる繭(まゆ)を育てていました。農家ではない古市でも、商売の副業として養蚕をしていましたから、あちこちの山畑には桑の木が植えられ、蚕のえさにされていました。

 ところが、昭和5年、生糸の価格が暴落して、その結果、繭の値段も未曾有の安価になってしまい、養蚕をしている人たちが大打撃を被ることになりました。

 生糸は「相場」で価格が変動していましたから、「上質の繭」を生産することにより、そ価格安定を図ろうと村人達は努力したのですが、そうすればするほど、桑畑が荒廃していき、奮闘努力がかえって蟻地獄のような状況を呈してきたことが窺えます。

 昭和6年発行の『古市村報』に、こんな悲痛な投稿がされていました。(『古市村報』は年一回発行の村役場の広報誌です)

投 稿 オリジナル
桑園改良の御文章

夫れ、桑園の不良なる相をつらつら観ずるに、凡そ果敢なきものは、桑の葉の始中終、絶え間なく採り盡さるゝ一時なり。されば未だ満足の発育をしたりと云ふ事を聞かず。一生過ぎ易し。今に至っては何れか百年の形態を保つべきや。彼や先是や先、春と云はず秋と云はず、濫採せらるゝ桑は、次第に其の収量を減じ、葉質は悪るくなるより外なきものなり。されば蚕は不作し、蚕業の利益は減少するものなり。既に斯く荒廃し来たりぬれば、即ち此の二つの目的は一つも達し得られず、養蚕空しく変じて徒労の憂き目を見る時は、六親眷属集りて欺き悲めども、更に其の甲斐あるべからず。さてしもあるべき事ならねばとて、余所の桑にて蚕を飼ひ果てぬれば、唯借金のみぞ残れり。哀れと云ふも中々愚なり。されば桑園の改良は蚕糸業の根本問題なれば、誰れ人も早く此の一大事を心にかけ、栽桑法を研究して改善の実を挙ぐべきものなり。アナカシコアナカシコ。

 蓮如上人作白骨の御文
 章作替(昭和五年)
白骨の御文章

それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。されば、いまだ万歳の人身をうけたりという事をきかず。一生すぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李のよそおいをうしないぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。さてしもあるべき事ならねばとて、野外におくりて夜半のけぶりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あわれというも中々おろかなり。されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
   作者姓不詳

戦時体制へ

 やがてこの年(昭和6)、満州で関東軍の軍事行動の展開により「満州事変」が起こり、きな臭い時代へと推移していった年でした。

 義士祭の行事の中では、『満州事変活動写真会』というものが開催され、一般入場券761枚、小学校児童生徒530枚が売られ、必要経費を差し引いた残金26円3銭が満州派遣軍将士慰問金として送付されました。

 やがて数年後、 「愛国婦人会」とは別に、「国防婦人会」も組織されていくようになり、昭和12年には、「防空演習」も行われ、灯火管制の要領も啓蒙され、ガス爆弾に備えての「防毒マスク」の普及もされていったのです。我が家にもゴム製の防毒マスクがありましたが、あれで防毒が出来るのか、大いに疑問を持っていましたが・・・。


防空演習のチラシの一部

現存する灯火管制用シェード(紙製)


昭和9年発行の『古市村報』の一部 「教育について」大西要校長 (傍線筆者添加)

昭和12年の『古市村報』より 学校の配置図

昭和13年の『古市村報』より 20年後の僕