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不来坂村の山の麓にある窯跡
(丹南町史より引用) |
古市焼の醤油差し |
「古市焼」と確定できる物はこの一品のみ現存するそうです。 |
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「丹波古市焼」とある |
「文化十二年亥五月」と読める |
表の絵付け |
コーヒーカップの取っ手状のものがあったようですが欠けています。また、注ぎ口の周辺も欠けていますが、ほぼ原型をとどめています。二輪の野菊と四頭の蝶が描かれています。葉っぱの形からは花にはなかなか行きつけませんが、素朴で身近なものを描いています。 |
実物は篠山市歴史美術館に保管されています。 写真提供:篠山市教育委員会 <2006.6.16> |
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以下は『丹南町史』より引用
古市焼きは、『藩日記』の文化5年(1808)6月23日の条に「古市村にて陶工相企試焼御聞届之事」とあり、この窯の成立時期が分かる。
この窯は、古市周辺の大庄屋役を勤め、当時篠山藩内で最高の酒造株を持っていた酒井三郎右衛門が、陶工を呼び寄せたことに始まる。酒井三郎右衛門はこの時期、波賀野村・波賀野新田村・見内村の三村立会山の陶石を余業として三田や姫路へ販売していた。『多紀郡明細記』によると、この陶石を作る「陶器石ハタキ水草」が波賀野村9臼、見内村に15臼あった。この陶石は、古市焼が衰退してからも王地山・立杭・三田・姫路方面へ原料として販売されていた。こうした良質の陶石が産出される場所に窯を築造するのは自明の理といわざるを得ない。
『藩日記』文化9年(1812)2月10日の条には「御他領の者、酒井三郎右衛門と申談、陶器職仕り度く願いの事」とあり、このころ三田薄御用達の神田惣兵衛が、当節名人といわれた京都の欽古堂亀祐を招請し、更に酒井三郎右衛門と協力のもと古市焼の製品の質的向上と、事業の拡大を図ったと考えられる。この時期が古市焼の最も栄えた時期であろう。その後、『藩日記』天保2年(1831)正月2日の条に「茶碗山焼け小屋ぼやこれ有り、見分立会い、下目付これを遣わす」とあるので、このころまでは続けられていたようであるが、王地山焼に押されてしまい、自然に廃窯となったのではないかと思われる。このように古市焼の存続期間はわずかな間であった。
陶石については、嘉永3年(1850)8月に南組代官にあてた「陶器細工石採掘箇所変更伺い書」(郡取締役御用日記)に、これまで採取していた波賀野山の石が近々採り尽くされるので、これに替わるものとして、最近古市山から採取していること、この石が細工には大変良質で、王地山焼に差し出す旨記している。また立杭・姫路・三田へも出荷していたことが書かれている。
この陶石の運上銀は、一年分として銀一貫三〇〇匁、駄賃は定法で荒石一駄(四〇貫・150s)古市から篠山王地山陶器所まで二匁二分、山で掘る手間賃と駄賃ともで一駄につき三分二厘、波賀野へ差し出す水濾賃は三匁一分四厘であった。
嘉永4年(1851)10月の陶石請負元は、古市村加茂屋長三郎、郡取締役辰巳分園田七郎左衛門から、摂州有馬郡三田町の鍵屋甚七や向井喜太夫に変わった。 |
三村立会山 |
波賀野村・波賀野新田村・見内村の「三村立会山」というのがどのあたりになるのかは今のところ不明です。 |
古市山 |
古市山という山がどこなのか、古市の人々は全く知りません。現在「天神山」と呼ばれる山があります。しかし、この山には天神さんは祀られておらず、頂上には愛宕さんの祠があります。愛宕さんがあって天神さんが無いのに、どうして「天神山」というのでしょうか?。
調べていますと、大正4年に天神さんを「天神山」から現在の蛭子神社の境内に遷したという事実が出てきました。
天神さん信仰が古市に始まったのは、いつのことかはわかりかねますが、無茶苦茶古くからあったとは考えられません。
幕末の福井藩主である松平春嶽が領民に天神画像を飾ることを奨励しましたが、加賀藩では武家や大商家の間では天神堂を作るといった風習があるが、庶民が天神さんを飾るまでには至らなかったといわれています。
そうすると、「天神山」に天神さんが祀られるようになる以前は、この山は単に「古市山」と呼ばれていたのではないかと推量するのです。
先の「三村立会山」も「古市山」も「松尾山」に続く屋根筋に繋がっていますから、陶石が共に産出したと考えるのは冒険でしょうか?。
地質学を勉強しておくべきだった(-_-;) |
天神祠内の由緒木札 |
明治末期の地図より |
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正面が「天神山」
これを「古市山」と呼んだのでは?
右側に「煩悩山」と続く
「煩悩山」の北側が「三村立会山ではないか? |
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