古市の古文書


 古市は江戸時代から三度ばかり大火に見舞われ、多くの家が焼失しました。そのため、古文書などの記録もたくさん焼失したものと思われ、現存する古文書は少数です。しかし、残されたわずかな古文書の中から、当時の村の生活の裏面を窺い知ることが出来ます。本稿は、『丹南町史』編纂資料などから収集(引用)したものもあります。

 その内のいくつかをご紹介しましょう。

宗門人別帳(奥書の部分)

 文政10年(1827)、古市の人々の住民台帳のようなものです。世帯ごとに記載され、宗旨ごとに区分されています。また各世帯ごとの年間収入も米に換算されて記載されていますから「納税台帳」も兼ねていたということです。「身分」は記載されていません。総人口は284人(男143 女138 戸数63)でした。(寺社は統計外に扱われています)
 五人組・七人組などに分けられていました。
『下人帳』と『出人帳』の3冊がセットになっています。「下人」とは商家の住込み使用人のことです。「出人」とは古市から他所へ嫁入りしたり婿養子に行った人のことで、50年も前の事まことまで記載されています。
宗門人別帳奥書

人別送りの覚  (転入確認通知書)

 天保8年(1837)、古市の庄屋宛に大阪菊屋町の所役人から、一家が転入してきたことを確認し、菊屋町の人別(住民台帳)に記載した旨を通知してきたものです。

嘆願書

 文政10年(1827)、罪を犯して入牢している村人の費用は家族が負担していたようです。しかし、親類や家族では長い間の負担は大変なので、公費で賄ってほしい旨を庄屋等が嘆願しています。
嘆願書

行路病死人口上覚 行路病死人検分覚書

 村はずれで40歳ぐらいの男性の旅人が亡くなりました。昨年来の凶作と寒さにより餓死したものと見ています。役人に届け、村の墓に丁重に葬ったことの覚え書きです。年号は記載されていませんが、「戌正月12日」とあり、当時の庄屋と飢饉との関係から推測すると、天保9年の事件だったことが窺われます。

宝暦の堂社改め

 宝暦8年(1758)に、全国一斉に寺や神社の様子を調査しました。『徳川実紀』には宝暦9年と出ていますが、どうやら前年に用意していたようです。境内の広さや建物の大きさなどが細かく記載されています。
 古市では蛭子祠と宗玄寺が出てきます。
堂社改帳の表紙

荷物扱紛争返答書 問屋・荷物扱い紛争の返答口上書

 宝暦6年(1756)、郡内(篠山)の茶や塩などは古市を通して流通させることが定法となっていましたが、問屋を通さずに荷物を運ぶ者が出てきて、たびたび紛争となりました。古来の定法を守るように通達を出してほしいという趣旨の口上書です。
 私どもは古くより馬持ち問屋をやってきました。貞享3年(1686)3月に、馬借り御定法を仰せつかり今まできましたが、最近いろいろとこの定法を守らず、問屋を通さず、近在の牛で荷を運ぶ者も出てきて、私ども馬持ち問屋は甚だ迷惑至極ですので古格のとおり仰せ出で下さるよう、又馬五疋を繋ぎ御役を勤めたく存じます。

陳情書

 安政3年(1856)、宗玄寺の庫裏が大変痛んだので、頼母子講で資金を工面しているが、公費補助金を頂きたいという陳情書。
 今も昔も、公費補助金が存在していたようです。
建築補助金要望書

神社建設出納帳 蛭子神社再建諸品買入台帳

 明治29年(1895)、現在の蛭子神社の北側半分にあった祠を大きく再建する事業が始まりました。村外からも多くの寄付を募り、建材や工賃などを支払った台帳です。総経費は871円3銭4厘と記載されています。
 残念ながら、収入を記録したものはまだ発見されていません。
 神社は本殿・拝殿などが新築され、明治30年に竣工式が行われました。

神号公許の証文

 文政12年(1829)、石橋稲荷社の神号が神祇管領公文所より公許になった証文です。
神号公許の証文

副戸長の辞令 副戸長の辞令

 明治9年に交付された古市村の内、古市・四斗谷・当野・住山・不来坂・辰巳の6ケ村の副戸長に任ずる辞令です。
 豊岡県が交付しています。
 月給5円ですから、今の貨幣価値に換算するといったいいくらになるのでしょうか・・・。
 その後、四斗谷と辰巳は今田村に組み入れられましたが、この当時はこんな範囲で一括りになっていたのですね。
消防手の辞令

 消防団の団員(消防手)には、警察署長から任命辞令をもらっていたようですね。


まだありますが、ボツボツと読んでいきたいと思っています。