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古市小学校は学制発布から134年の歴史の流れをくんだ小学校です。その足跡をみていきます。(小学校の沿革誌と異なっている部分もありますが、諸説ありますことをお断りしておきます。「私小説的古市の歴史」「丹南町史」「古市小学校沿革誌」を参考にしました。) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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油井学校印 | 益習支校印 | 古市学校印 | 古市小学校印 | 尋常高等小学校印 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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『芽生』(昭和16年発行)より | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
古い思ひ出 井関 壽太郎 国民学校制に改められるに当たりまして古市小学校の古い思ひ出を何か書いてみよ、との事でありましたが元より頭の乏しい私の事ですから是といって別段とり止めたことも有りませぬが少し記憶を辿って見たいと思ひます。 何分五十余の昔のことで私が一年生に入学致しましたのが明治廿二年でありまして、其の時分は御承知の通り今の黒住教会の屋敷が学校でありまして、コの字なりの校舎で向かって右が尋常科、左が簡易科となって居りました。簡易科の方は授業料が要らないと云ふことになって居りました。此の制度は程なく無くなり、皆尋常科となった様に思って居ります。校舎は誠にお粗末なもので廊下を歩くと板が一枚々々跳ね上る様な次第でした。通学の児童は皆袂のある着物を着て藁草履を穿き、靴を穿く様な児は余程お金持の子供が二、三人位でした。一年生は掛図と云ふものでアイウエオや、いろはを習ったものです。それから三,四年となりましても読書、算術、習字、修身位のもので作文の様なものも今の生徒の様に文学的なものでなく極めて幼稚な『筆は竹と毛とを以て造りたるものにて字を書くに用ゆるものなり』位のもので有りました。体操は四年生になると亜鈴体操と云ふのをしました。年に四回小試験があって其成績によって番の順を決めたものです。今の学年末の試験を大試験と云って中には落第する者もあり、私等子供としてはとても大事な心配事でありました。無論大試験は他所の学校の先生方が来られて行はれるのでありました。 私が四年生を卒業する時は同級生男女合せて十二名でありました。大抵は三年生位で止めて居りました。先生も皆で三名位を越えず女の先生などはありません。 子供ながら胸に刻んで五十年を経た今日まで忘れ難いことは明治二十三年十月三十日御下賜せられました教育勅語を始めて拝読のありました時、小さい胸に日本の民草としてどんなに有難い感に打たれた事でせう。それから翌二十四年二月十九日薨去されました三条実美公のことで維新の大業を成就なされた大功臣として死に先立ちて正一位に叙せられ、所謂位人臣を極められたことを聞き、此の偉い人を失ふたことの悲しさを先生からお話しを聞いた時十歳の子供でありながら皆机に打伏して涙にくれたことは今に忘れることの出来ない深い印象であります。其他濃美の大震災や、露西亜の皇太子が大津で遭難された時、お天子様の御軫念あらせられたことを承り、どんなに畏く思ふたことでせう。国を憂へると云ふ切ない心は此の小さい子供にも深く胸にあったのであります。 又学校と宗玄寺との間に小さい孟宗藪がありまして秋の中頃にはよく法師蝉が鳴いたもので詩的の興趣は今に忘れ難いものであります。回顧しますと五十年の昔、尋常四年で学業を止めて家業に従事しました私が日進月歩の文明の世に処してどんなに淋しい心細い感を懐いて暮らしたことでせう。 でも夜学と云ふことを少々致しました。それは此の淋しい心を慰める為でありました。それで其の癖がついたのでせうか、例へ一頁でも読書を為ないで就寝しました夜は還暦のお爺さんの今日まで未だ一日も無い様に思ひます。 終に青年時代の夜学の師 奥村一郎先生の愛情の想出を一句 灯を捧げ夜学子送る師なりけり |
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小学校時代の懐古 松木 兼一 時勢に即応する様に教育方針を変へて行く事は当然なことで、又必要なことである。此度母校が国民学校と改称されて、其の内容も今日の社会情勢に適合する様に変更されることは誠に結構なことゝ思ふ。新らしき国民学校の発展を衷心希望して止まない。 私が古市小学校へ入学したのは明治二十八年の春で、祖父に伴はれて始めて学校の門をくゞったのであった。当時の学校は今日黒住教会のある場所で、凹字形の二階作りの建物で、紙張りの障子が沢山あつて、今から思ふと誠に小さな貧弱な汚い校舎であつた。室谷校長先生に入学式を受け、大塩準之助先生が私等の受持となられた。室谷校長は長身有髭の風彩堂々たる先生で、私等は常に畏敬して居ったが、大塩先生は之れに反して小柄で女性的で優しく実に親しみ易い感を与える先生であった。私等は、ハ、ハト、キリという読本を稽古した、一年二年生の間大塩先生の教えを受けたので同先生の印象は誠に深いものがある。約十年前に偶然神戸で同先生に出合ふ機会を得た、然し多くを話す時間がなかったが健全なる老先生の温容に接して、実に云ふに云はれぬ嬉しさを感じた次第である。その頃私は比較的真面目に勉強したので成績も良かったが、三年生頃には遊びに気を取られて勉強もしなかった。従って成績も下ったので母に叱られたことを記憶して居る。 此頃であったと思ふ、古市村にとって一大変劃が来る。丁度ペルリの来航が我が国民に非常な刺激と一大変革とを齎したと同じ様であった。元来古市村は摂津と播磨との分岐点で人馬の往来は相当あったが、何分山間の一村落で静かな處であった、従って昔から宿場として発達し、多紀郡の三駅として生活して来たのであった。鉄道の新設は一面には都会の文化に接する便益があるが、他面には変動を余儀なくさせることとなった。鉄道の新設工事が始まると急に多くの工夫、請負業者、技術家等が続々として諸国より入って来て、一時は静かな古市も賑やかとなり人々は歓喜した様であった、然し在来の古市人等は此等の外来者等の為めに壓倒された感があった。此の暫定的の好景気の為めに道義心は地に落ちて、物質崇拝の気風が拡がって来た。工事が終了して鉄道が開通し外来者の大部分が帰り去った後の古市は、その昔よりも一層貧弱なさびれた村と変って居った。 私等は測量の真似をしたり、工夫の好ましからぬ真似をしたり、日出坂のトンネル工事を見物に行ったりして遊ぶことに一生懸命であった。実に子供は環境に染まり易いものである。此の大変動に際して古市商人の倒産する者簇出し、閉店するものも相ついで起こった、我家も其の内の一つであった。之の有様を目撃し体験したる私は『将来は大商人となりて多くの富を集めねばならぬ、それには古市に居っては駄目である』と深く感じた、これが私をして今日まで商人としての一途を歩まして来た原因である。 小学校に於いても亦此の間に相当な変化が起こた、年毎に増加する児童を全部収容することが出来なくなった、各教室は超満員で二階の講堂も一級で占めて居った程であった、殊に建物も旧式で進歩しつつあった教育方針に沿い難き始末であった、依って鉄道の新設に伴ひて現在の場所に新しく校舎を建設されることゝなった、確かに私等が高等科二年の時で奥村先生が校長の時であったと思ふ、新校舎が落成して私等は移った、広くて美しくて正に隔世の感があった。暫くして奥村校長が朝鮮に去られ、後任として松岡校長が来られた、当時辻多蔵先生も居られて学校の内容も若々しく改善された様に思ふ。斯くして私は古市尋常小学校の全科程を無事終了した、卒業証書を得ることは当時に於ける私等の最大の希望であり最大の誇りであり同時に最大の満足を得た訳である。 私が教を受けた先生には上記の外に、吉田、福原、中西、小畠、小嶋、上田等の諸先生がある、此等の諸先生に対して茲に満腔の謝意を表したい。 卒業証書を得た私は商人となる為めに、商業学校に入学したい希望であったが、当時商業学校は神戸市にあったのみであるから不便の為に之を止めて、篠山の鳳鳴義塾の入学試験を受けることにした、同期生にして鳳鳴義塾に入学を許可された者は栗栖野村の酒井耕作君と私との二人のみであった。 以上は漠然とたゞ思ひ浮ぶまゝを記した次第であるが、私の同期卒業生の内には既に物故した人もあり、学校の卒業式で別れたきり会はない人もあり、間接的にその消息を聞いて居るだけの人もあり、時々出会ふ人とては殆ど稀な始末である、これは私の歩いて居る途が少し異なて居る為めであり、又常に郷里に遠ざかって生活して居る為めでもあらうと思ふ。且つ又私の仕事が忙しくて今日まで他事を観るの余裕がなかった為めでもあらうと思ふ、然し今や齢五十を越えて寒夜炉辺に静座して、昔を懐顧すれば、竹馬の友に対する恋慕の情禁じ難きものがある、相ひ会する機会もがなと祈る次第である。 |
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