学校のミニ歴史


 古市小学校は学制発布から134年の歴史の流れをくんだ小学校です。その足跡をみていきます。(小学校の沿革誌と異なっている部分もありますが、諸説ありますことをお断りしておきます。「私小説的古市の歴史」「丹南町史」「古市小学校沿革誌」を参考にしました。)
明治以前(〜1868) 全国あちこちに寺子屋がありました。日本は世界的に見ると比較的識字率の高い国で、「読み書き・そろばん」を習って、日常的な計算や自分の名前などが書ける人が多かったのです。大方の子どもが1年ほどは寺子屋に通って基礎的なことを習っていました。
教科書は寺子屋の師匠の手作りの物が多く、「往来物」と呼ばれる手紙などを元にしていました。古市ではほとんど残っていません。
明治5年8月(1871) 学制が発布され、下等小学校(半年ごとに進級の4ケ年)・上等小学校(半年ごとに進級の4ケ年)が制定されました。
明治6年3月5日(1872) 福井一義が油井の地に小学校(油井学校)を起こし、子弟の教育を始めました。現在、モウ谷池と呼ばれる灌漑用水池の傍です。
明治7年(1873) 記録には、古市字南側に小学校一ケ所と出てきます。これは宗玄寺の「益習舎」のことです。(「益習舎」がいつ頃から始まったかは不明です)
明治8年9月(1874) 卒業証書には、「第三大学区豊岡県管内第廿六番中学区丹波国多紀郡油井村第百六十壱番小学」と記載され、「油井学校」の印が押されています。
明治9年11月(1875) 卒業証書には、「第三大学区豊岡県管内第廿六番中学区丹波国多紀郡古市村第百六十番小学校」と記載され、「益習支校」の印が押されています。(古市は明治9年8月に豊岡県を廃して兵庫県となっています。卒業証書はそのまま使われたのでしょう。この頃、新しい役場の庁舎を建築して就航式の翌日に県の区域が変わることになり、大騒動を起こした村もあったそうです。)
明治10年4月(1876) 卒業証書には、「第三大学区兵庫県管内第廿六番中学区丹波国多紀郡古市村第百六十番小学古市校」と記載され、「益習支校」の印が押されています。
明治12年10月(1878) 卒業証書には、 「第三大学区兵庫県管内第廿六番中学区丹波国多紀郡第四十九番小学区古市小学校」と記載され、「古市学校」の印が押されています。(次第に寺子屋の形態から学校が統合されていくようです。)
明治16年5月(1882) 卒業証書には、「兵庫県丹波国多紀郡第廿一番学区村立古市小学校」と記載され、「村立古市学校之印」が押されています。 多紀郡は一町一八ケ村に編成され、ほぼ一ケ村に一校ずつが村立校(本校扱い)として整理統合された様子がうかがえます。
明治17年11月(1883) 「古市小学校」が宗玄寺西南隣に新築落成されています。(明治20年説もあります。)
簡易小学校の授業料は無料だったそうです。
明治22年6月(1888) 校舎狭隘のため南矢代小学は簡易小学校の分校となりました。
明治24年(1890) 「古市簡易小学校」が廃止され「古市尋常小学校」のみとなりました。
南矢代分教場は独立して「玉津尋常小学校」となりました。
明治27年4月(1893) 二年制の高等科が設置され、「古市尋常高等小学校」となりました。高等科が設置されている学校は少なく、そのため、郡外から通学する子どもがいました。
高等科は尋常科の他に、日本地理・日本歴史・外国地理・理科・図画・唱歌が科目追加
明治28年(1894) 校舎狭隘のため見内の二村神社内に一学級分を分離しました。
明治32年度(1898) 高等科が四年制になりましたが、高等科四年生は一人もいませんでした。
明治33年4月(1899)      見内二村神社内分教場が宗玄寺に移されました。
明治33年11月(1899) 波賀野新田の現在地に新築移転しました。
玉津尋常小学校と合併。玉津校は分教場となりました。
明治37年(1903)         国定教科書使用が使用されることになりました。
明治38年(19043) 学校林を制定する。
 本村ノ内古森村所属、同村外二ケ村共有字寺屋敷壱番、山林八町歩ノ内、実測反別弐町歩、及同字横尾壱番、山林五町歩ノ内、実測反別四町歩、都合六町歩ヲ本村へ借惜受ケ、戦時記念トシテ学校基本財産構成ノ目的ヲ以テ、別紙契約書ニ基ヅキ杉檜苗樹植樹セントス
  明治二十八年三月一八日

 有馬郡藍村ノ内藍本村字池床三千五百七十番ノ一山林実測反別四拾九町三反六畝二五歩 此買受代金八百五十円
 右今回戦時記念ノ為本村基本財産トシテ之レヲ買得セソトス
  説明
 先ニ本村ノ内古森村外二ケ村ヨリ戦時記念トシテ、学校基本財産構成ノ目的ヲ以テ山林六町歩ヲ本村へ寄付シタルヲ始トシ、其後当野村ヨリ六町歩ノ山林ヲ寄付シタルヨリ、今回進ンデ本村基本財産トシテ前記山林ヲ買得スル事トシ、然シテ之レガ代金ハ先二寄付シタル草野・古森・油井・当野ノ四ケ村ヲ除キタル、南矢代・牛ケ瀬・初田・犬飼・矢代新・波賀野・見内・波賀野新田・古市・不来坂・住山ノ十一ケ村ヨリノ寄付金ヲ採納シ、買得金ニ当テントス

   明治三十八年十二月二十一日
明治41年(1908)    
義務教育年限延長で6年となり 高等小学科は2年となりました。
明治43年10月(1910)  
校舎の増築がされました。
明治44年(1911) 新制高等科3年が設置されました。
大正6年(1917) 実業補修学校ができました。
大正14年(1925) 学校に電話が引かれました。
大正15年(1926) 講堂と校舎が増築されました。
実業補修学校に青年訓練所を併設しました。
学校に電灯が引かれました。
昭和2年(1927) 「幼稚園令」が交付され、空き教室を使って開園しました。
昭和3年(1928) 実業補修学校と青年訓練所が統合され農業公民学校となりました。
昭和10年(1935) 校舎1棟が改築されました。
青年訓練所を改め古市村青年学校ができました。
運動場が奉仕作業で拡張されました。
昭和16年(1941) 古市国民学校と改称されました。
昭和19年(1944) 尼崎西小学校より46人が戦時疎開で入校しました。(天理教教会を宿舎としました。)
昭和20年(1945) 小学校で大火災がありました。
2月20日 午後6時50分、最初新館二階西端の高二教室から出火。7時10分全館炎上し、7時30分倒壊と同時に旧館も炎上。特別教室2室とともに19教室を消失し9時ごろ鎮火しました。
21日 昨夜来の大降雪中、村内総出で徹夜の灰かき、跡片付けに従事。出火原因は特定出来なかったが、保温用大火鉢の底からであろうと推定されました。
24日 連日連夜不眠不休の各訓導、県員が一応帰宅しました。
25日 午前9時から村内役員会開催。平屋二棟を建築すること決定しました。
26日 積雪8寸余、酒井賢一訓導は教具借り入れのため尼崎へ宮本書記とともに出張しました。
27日 講堂を間仕切りして授業が再開されました。
昭和21年(1946) 篠山連隊の兵舎の払い下げを受け、村民の奉仕作業で運搬し、校舎の再建築をしました。
昭和22年(1947) 古市村立古市小学校と改称され、新制中学校が本校内に設置されました。
昭和27年(1952) 公選制教育委員が誕生しました。
昭和29年(1954) 運動場に階段式スタンド新設が新設されました。
南矢代分校が改築されました。
昭和30年(1955) 合併により丹南町立古市小学校と改称されました。
昭和31年(1956) 教育委員の公選制が廃止されました。
昭和32年(1957) 南矢代分校で多紀郡最初の完全給食が始まりました。
昭和35年(1960) 現校舎に改築されました。
本校で完全給食が始まりました。
昭和39年(1964) 現在の校歌が発表されました。(作詞:平尾和己<本名:上田和夫> 作曲:波部初雄)
昭和40年(1965) プールができました。
昭和45年(1970) 体育館ができました。
昭和59年(1984) 南矢代分校が廃止され、本校に統合されました。
幼稚園の独立園舎ができました。

宗玄寺西南隣時代の古市小学校(明治20年度)

校 名 古市尋常小学校・古市簡易小学校
元、古市小学校が古市尋常小学校・簡易小学校の二校となり同一の地に設置。
   
教科課程 修身・読方・作文・習字・算術・体操
   
職 員 尋常科訓導  坪井房吉
授業生     北村源正博
簡易科訓導  大塩準之助
   
関係員 管理者 戸長 酒井義太郎
   
所在地 古市村宗玄寺西南隣
   
校地校舎 日本風正面二階屋側面平屋
教室 2室 22坪半
体操場 40坪
   
入学児童 尋常小学校分
  入学 男6 女4名
  退学 男10名 女3名
学級編成在籍児童数
尋常小学校  計 男85  女23
  第一学級 4年 男21 女3
         3年 男16 女5
         2年 男21 女10
  第二学級 1年 男27 女5 
 簡易小学校 計 男20 女六
         3年 男7 女1
         2年 男6 女1
         1年 男7 女4
卒業生徒数
 尋常小学校  男14  女2
 簡易小学校  男5   女0
古市尋常・高等小学校
明治27〜32頃の学校
児童56人(二階の窓に2人)
家庭科教員が写っている(家庭科設置後)
後に黒住教会、公民館へと変遷しました。

教員 女子の服装
教員 女子の服装

校舎の鬼瓦
校舎の鬼瓦

油井学校印 益習支校印 古市学校印 古市小学校印 尋常高等小学校印
油井学校印 益習支校印 古市学校印 古市小学校印 尋常高等小学校印

高等科精勤賞 尋常小学校修業証書 小学校の正面
明治36年の精勤賞 明治39年の修業証書 昭和10年頃の小学校正面

昭和10年頃の様子(1935)
茶道の授業 華道の授業 託児所
家庭科(茶道) 家庭科(華道) 二村神社の託児所
二村神社託児所の写真中央に、村長上田寅之進が写っている。(村長 1920〜1937)

通学風景 昭和10年頃の通学風景
  (菅野逸郎映画より)

『芽生』(昭和16年発行)より
 古い思ひ出                               井関 壽太郎

 国民学校制に改められるに当たりまして古市小学校の古い思ひ出を何か書いてみよ、との事でありましたが元より頭の乏しい私の事ですから是といって別段とり止めたことも有りませぬが少し記憶を辿って見たいと思ひます。
 何分五十余の昔のことで私が一年生に入学致しましたのが明治廿二年でありまして、其の時分は御承知の通り今の黒住教会の屋敷が学校でありまして、コの字なりの校舎で向かって右が尋常科、左が簡易科となって居りました。簡易科の方は授業料が要らないと云ふことになって居りました。此の制度は程なく無くなり、皆尋常科となった様に思って居ります。校舎は誠にお粗末なもので廊下を歩くと板が一枚々々跳ね上る様な次第でした。通学の児童は皆袂のある着物を着て藁草履を穿き、靴を穿く様な児は余程お金持の子供が二、三人位でした。一年生は掛図と云ふものでアイウエオや、いろはを習ったものです。それから三,四年となりましても読書、算術、習字、修身位のもので作文の様なものも今の生徒の様に文学的なものでなく極めて幼稚な『筆は竹と毛とを以て造りたるものにて字を書くに用ゆるものなり』位のもので有りました。体操は四年生になると亜鈴体操と云ふのをしました。年に四回小試験があって其成績によって番の順を決めたものです。今の学年末の試験を大試験と云って中には落第する者もあり、私等子供としてはとても大事な心配事でありました。無論大試験は他所の学校の先生方が来られて行はれるのでありました。
 私が四年生を卒業する時は同級生男女合せて十二名でありました。大抵は三年生位で止めて居りました。先生も皆で三名位を越えず女の先生などはありません。
 子供ながら胸に刻んで五十年を経た今日まで忘れ難いことは明治二十三年十月三十日御下賜せられました教育勅語を始めて拝読のありました時、小さい胸に日本の民草としてどんなに有難い感に打たれた事でせう。それから翌二十四年二月十九日薨去されました三条実美公のことで維新の大業を成就なされた大功臣として死に先立ちて正一位に叙せられ、所謂位人臣を極められたことを聞き、此の偉い人を失ふたことの悲しさを先生からお話しを聞いた時十歳の子供でありながら皆机に打伏して涙にくれたことは今に忘れることの出来ない深い印象であります。其他濃美の大震災や、露西亜の皇太子が大津で遭難された時、お天子様の御軫念あらせられたことを承り、どんなに畏く思ふたことでせう。国を憂へると云ふ切ない心は此の小さい子供にも深く胸にあったのであります。
 又学校と宗玄寺との間に小さい孟宗藪がありまして秋の中頃にはよく法師蝉が鳴いたもので詩的の興趣は今に忘れ難いものであります。回顧しますと五十年の昔、尋常四年で学業を止めて家業に従事しました私が日進月歩の文明の世に処してどんなに淋しい心細い感を懐いて暮らしたことでせう。
 でも夜学と云ふことを少々致しました。それは此の淋しい心を慰める為でありました。それで其の癖がついたのでせうか、例へ一頁でも読書を為ないで就寝しました夜は還暦のお爺さんの今日まで未だ一日も無い様に思ひます。
 終に青年時代の夜学の師
 奥村一郎先生の愛情の想出を一句
   灯を捧げ夜学子送る師なりけり
 小学校時代の懐古                  松木 兼一

 時勢に即応する様に教育方針を変へて行く事は当然なことで、又必要なことである。此度母校が国民学校と改称されて、其の内容も今日の社会情勢に適合する様に変更されることは誠に結構なことゝ思ふ。新らしき国民学校の発展を衷心希望して止まない。
 私が古市小学校へ入学したのは明治二十八年の春で、祖父に伴はれて始めて学校の門をくゞったのであった。当時の学校は今日黒住教会のある場所で、凹字形の二階作りの建物で、紙張りの障子が沢山あつて、今から思ふと誠に小さな貧弱な汚い校舎であつた。室谷校長先生に入学式を受け、大塩準之助先生が私等の受持となられた。室谷校長は長身有髭の風彩堂々たる先生で、私等は常に畏敬して居ったが、大塩先生は之れに反して小柄で女性的で優しく実に親しみ易い感を与える先生であった。私等は、ハ、ハト、キリという読本を稽古した、一年二年生の間大塩先生の教えを受けたので同先生の印象は誠に深いものがある。約十年前に偶然神戸で同先生に出合ふ機会を得た、然し多くを話す時間がなかったが健全なる老先生の温容に接して、実に云ふに云はれぬ嬉しさを感じた次第である。その頃私は比較的真面目に勉強したので成績も良かったが、三年生頃には遊びに気を取られて勉強もしなかった。従って成績も下ったので母に叱られたことを記憶して居る。
 此頃であったと思ふ、古市村にとって一大変劃が来る。丁度ペルリの来航が我が国民に非常な刺激と一大変革とを齎したと同じ様であった。元来古市村は摂津と播磨との分岐点で人馬の往来は相当あったが、何分山間の一村落で静かな處であった、従って昔から宿場として発達し、多紀郡の三駅として生活して来たのであった。鉄道の新設は一面には都会の文化に接する便益があるが、他面には変動を余儀なくさせることとなった。鉄道の新設工事が始まると急に多くの工夫、請負業者、技術家等が続々として諸国より入って来て、一時は静かな古市も賑やかとなり人々は歓喜した様であった、然し在来の古市人等は此等の外来者等の為めに壓倒された感があった。此の暫定的の好景気の為めに道義心は地に落ちて、物質崇拝の気風が拡がって来た。工事が終了して鉄道が開通し外来者の大部分が帰り去った後の古市は、その昔よりも一層貧弱なさびれた村と変って居った。
 私等は測量の真似をしたり、工夫の好ましからぬ真似をしたり、日出坂のトンネル工事を見物に行ったりして遊ぶことに一生懸命であった。実に子供は環境に染まり易いものである。此の大変動に際して古市商人の倒産する者簇出し、閉店するものも相ついで起こった、我家も其の内の一つであった。之の有様を目撃し体験したる私は『将来は大商人となりて多くの富を集めねばならぬ、それには古市に居っては駄目である』と深く感じた、これが私をして今日まで商人としての一途を歩まして来た原因である。
 小学校に於いても亦此の間に相当な変化が起こた、年毎に増加する児童を全部収容することが出来なくなった、各教室は超満員で二階の講堂も一級で占めて居った程であった、殊に建物も旧式で進歩しつつあった教育方針に沿い難き始末であった、依って鉄道の新設に伴ひて現在の場所に新しく校舎を建設されることゝなった、確かに私等が高等科二年の時で奥村先生が校長の時であったと思ふ、新校舎が落成して私等は移った、広くて美しくて正に隔世の感があった。暫くして奥村校長が朝鮮に去られ、後任として松岡校長が来られた、当時辻多蔵先生も居られて学校の内容も若々しく改善された様に思ふ。斯くして私は古市尋常小学校の全科程を無事終了した、卒業証書を得ることは当時に於ける私等の最大の希望であり最大の誇りであり同時に最大の満足を得た訳である。
 私が教を受けた先生には上記の外に、吉田、福原、中西、小畠、小嶋、上田等の諸先生がある、此等の諸先生に対して茲に満腔の謝意を表したい。
 卒業証書を得た私は商人となる為めに、商業学校に入学したい希望であったが、当時商業学校は神戸市にあったのみであるから不便の為に之を止めて、篠山の鳳鳴義塾の入学試験を受けることにした、同期生にして鳳鳴義塾に入学を許可された者は栗栖野村の酒井耕作君と私との二人のみであった。
 以上は漠然とたゞ思ひ浮ぶまゝを記した次第であるが、私の同期卒業生の内には既に物故した人もあり、学校の卒業式で別れたきり会はない人もあり、間接的にその消息を聞いて居るだけの人もあり、時々出会ふ人とては殆ど稀な始末である、これは私の歩いて居る途が少し異なて居る為めであり、又常に郷里に遠ざかって生活して居る為めでもあらうと思ふ。且つ又私の仕事が忙しくて今日まで他事を観るの余裕がなかった為めでもあらうと思ふ、然し今や齢五十を越えて寒夜炉辺に静座して、昔を懐顧すれば、竹馬の友に対する恋慕の情禁じ難きものがある、相ひ会する機会もがなと祈る次第である。