『芽生』 第十二号(昭和七年発行 1932)

       昔の古市              尋五 吉田良作

 35、6年前の僕の家から波賀k野新田の向こうの酒井繁雄君の家のはたまで、両側は藪であって、その中は大変さびしく、きたない道であった。

 また僕の家の下から今の駅の上まではよい畠であった。今の駅のしもへ、増田屋のあたりまで、大変大きくきたない池であって、信用組合のはたは藪であって、池と藪との間に細い道がひとすじ通っていた。

 駅の上の山には狐がいてだまされた人もあったそうだ。横町の池の向こうの山にも狐がいたそうである。また昔はばくちがよくはやったそうである。

 また昔「きよめ墓」に今もある大きな木に、夜になると赤子の泣くような声がするので、皆はおばけがないていると言って、夜になると大さわぎになり、墓の下にいつのまにか店を開いて金もうけに来た者もあったそうだ。

 そのおばけと言うのは、ふくろうが鳴いていたのだそうである。また古市は名高い宿場であって大阪または京都へ行く人は必ず通らなければならない所であった。また義士で名高い不破数右衛門のいた所の家もある。

  この作文は5年生の「郷土史」の勉強で書かれたものです。



解説
@ お断り 漢字・数字・カナ使いは変換した。
A 尋常小学校五年生の吉田良作君から見て35、6年前は明治30〜31年のことである。(1897〜1898)
B 吉田良作君の家=古市2番地であった。今も駅の方に降りる里道の面影が残っている。
C 酒井繁雄君の家=今の見内踏切の近辺。
D 鉄道はまだ開通されていない時期である。
E 線路沿いに駅から見内踏切へ通じる道は鉄道開通後にできた。学校へ入る『幸橋』の所は尾根になっていて、大塚谷川の水は南に流れて『裏池』に入っていた。鉄道開通工事で切り通しとなり、大塚谷川の水は北に流れるようになった。
F 大きな汚い池とは=『裏池』と呼ばれ、駅の陸橋から踏切あたりまであった池のこと。
G 信用組合=今のJA駐車場の北側の端にあった。(栂崎さんの西側)
H 池と藪との間に細い道=中の町から駅に通じるJA西側の道は鉄道開通後広げられたもので、当時は細い里道だった。
I 横町の池の向こうの山=丸山のことか。
J 「きよめ墓」=現在の門徒墓のこと。
K 大きな木=榎木があった。