古市昔話−3−

お地蔵様がやってきた

これでわかった お地蔵様のご縁


古市の日限地蔵様
古市の日限地蔵さま

 古市の宗玄寺の境内の一角にお地蔵様が祀られています。真宗のお寺では珍しいことですが、地域との関係から、古くからお祀りしてあります。どんな事情があったのかは定かに伝わっていません。

 古市にお地蔵様が祀られるようになったのは江戸時代に播州から持ってきたと伝えられていました。
ごく最近、その事を記した古文書が出てきました。

 古市のお地蔵様がいったいどこから古市へ持ち込まれたのかということに、いつもわだかまりを持っていたのですが、古文書の出現で、喉に刺さった小骨がふっと抜けたような思いがしました。(古文書コピー提供:栂崎みさ子さん)
 

発見された古文書



 天保14年初秋4日付の古文書は、『日限地蔵尊 寄進帳』と書かれ、世話方には横屋休兵衛・加茂屋長三郎、取締方には磯志屋太助(太左衛門のこと)、勘定方には住屋治左衛門と書かれています。

 西暦1843年のことですから、今からちょうど164年前のことになります。


 世話方の人たちは、当時の村の役員だったようです。

  横屋 休兵衛
  加茂屋 長三郎
  磯志屋 太助(太左衛門のこと)
  住屋 治左衛門
       


地蔵古文書の表紙
古文書の汚れは取り除いています。

 表紙の裏には寄進趣意書が書かれていました。読み下し的に読んでみますと、

   そもそもこの延命地蔵尊は、播州吉川の熊谷に鎮座まします日限地蔵尊を、当駅(古市)にお移したものです。このお地蔵様のご利益があることは、誰もがよく知っているところです。

 当駅(古市)の男女子供中より勧請したものです。

 各々志のあるお方は、多少によらず何の品でも結構ですからご寄進くださるようお願いします。

 これからは、毎年7月24日をお祭の日として、古市の上・中・下の三町が順番で礼拝する場所をお世話くだされるようお願いします。以上。

 天保14年7月
     世話人
        子供中
 

と読むことができます。

地蔵古文書寄進趣意書の部分

この呼びかけで寄進されたものは、
糯  二升 横屋休兵衛(おとなの人)
小豆 五合
紙  一折
ささげ 少し
加茂屋長三郎(おとなの人)
糯  一升
うり  一つ
なすび
ろうそく 四本
磯志屋太左衛門(おとなの人)
糯  一升 住屋治左衛門(おとなの人)
なんきん  一つ 飴屋市郎兵衛(おとなの人)
なんきん  一つ
なすび  十五
同 和助(「和助」という男の子らしい)
うり  二つ 大坂屋平右衛門(おとなの人)
同   一つ 松森や義兵衛(おとなの人)
三歩(お金のこと) ひしや内 (内=おかみさんのこと)
拾弐銅(お金のこと) 加茂屋広 (「広」という女の子らしい)
弐拾文(お金のこと) 斧屋さく (「さく」という女の子らしい)
弐拾文(お金のこと) 斧屋内 (内=おかみさんのこと)
拾弐銅(お金のこと) よこ又内 (内=おかみさんのこと)
弐拾文(お金のこと) 加茂屋周助内 (周助さんのおかみさんのこと)
てまり 二つ とまつや をくま (「をくま」という女の子らしい)
拾弐銅(お金のこと) 加茂屋貞蔵 (「貞蔵」という男の子らしい)
と、つつましくもほほえましい物でした。現在の物価では500円〜1000円程度でしょうか?

 初秋とはいえ、夏の最中に、お祀りが終わって、子どもたちが餅にぱくついたり、冷やした瓜にかぶりついている様子が目に見えるようです。

でも、一番最初はどこにお祀りしたのかはわかりません。


 さて、「播州吉川の熊谷」という所はどこなのでしょうか? いろいろと調べていくと、ようやく現在の場所がわかってきました。明治16年に村の合併があって、熊谷村は他の村と一緒になって「富岡」という村になっていました。現在の「三木市吉川町富岡」です。昔の「熊谷村」には浄土真宗のお寺があると記載されていましたので、早速訪問することにしました。

三木市吉川町富岡の旧休熊谷地域の遠景
熊谷地区の一部の遠景(中央の谷が北谷という所)

 大川瀬から県道314号線を南下して3qばかり行くと、左(東方)に山懐に囲まれた景色が出てきます。(この道をもう少し行くと上吉川小学校があります)

 左の写真の右側の丘には、曹洞宗東林寺、左の丘には浄土真宗本願寺派蓮光寺があります。近くの公民館でゲートボールをしていたおばあちゃんに、日限地蔵さんの事を尋ねますと、今もお祀りしてある場所や講元のお家を紹介してくれました。

 蓮光寺の側を通り抜けて、日限地蔵さんへと・・・。
熊谷の地蔵堂標識
熊谷の日限地蔵さんの案内石

 蓮光寺から東へ5〜600b行くと、右の丘裾沿いの道端に石の標識が立っていました。

 その脇道を胸を躍らせて少し登っていくと、熊谷の『日限地蔵様』のお堂が建っていました。
熊谷の地蔵堂
熊谷地蔵堂

 以前はこの場所の北方約500bほどの場所(講元さんの家の北側)にお祀りしてあったのですが、ゴルフ場が出来ることになり、この場所に移転されたということです。

 早速、お地蔵様に『お邪魔しまーす!』と声をかけて、お堂の中へ入らせていただきました。

熊谷の日限地蔵様

 中には丁重にお地蔵様がお祀りされていました。古市と同じように、千羽鶴もお供えされていました。古市の方も、ひょっとしたらこのお供えを見ていたのかな? と、思わず思ってしまいました。

 おじそう様の前には両側に椅子が並べてありました。

 お地蔵様の真言は

  オンカカカ ビサマエー ソワカ

というのだそうです。

熊谷の講元さんのお家
講元さんのお家

 地蔵堂と道を挟んで向かい側に地蔵講の講元さんのお家がありました。(お名前は伏せます)

 江戸時代は村の庄屋をされていて、「日限地蔵様」はその当時から「持仏」としてお祀りされているということでした。

 昔も今も、古市のような盆踊りや造り物などはせず、4月と8月のお地蔵様の縁日(24日)に、近くの方でお参りの集いが持たれているということでした。

 しかし、霊験あらたかでよくお願いを聞いてくださるお地蔵様で、お参りが途絶えなかったということでした。

熊谷の日限地蔵様
熊谷の日限地蔵様
古市の日限地蔵様
古市の日限地蔵様

 熊谷の区域でも「北谷」という所は、古市と同じように地域の中が上・中・下・山口などと区分されています。まるで古市と同じような区分の仕方でした。

 講元さんとお地蔵さんのある場所は、熊谷の北谷の上地区ということでした。

 この地域一帯は、酒米の「やまだにしき」の主産地のようで、あちこちの水田の中には「契約栽培」の白い旗がたくさん立てられていました。


ご詠歌(古市日限地蔵)

古市の地蔵堂


熊谷の「日限地蔵様」は、こんな場所でした


 熊谷という所に2体のお地蔵様の石像があって、その内の1体をもらって来たということではなく、熊谷の日限地蔵様の心を分身として分けてもらって来たということでしよう。「勧請」とはそういう意味なのです。

 昔の人びとは、商売繁盛を願って、「蛭子様」を祀ったり、「お地蔵様」を祀ったりと、いろいろと工夫を凝らしていたことがわかります。今年で164回目の地蔵盆を迎える事になります。平均して各町50回以上の当番をつとめてきたことになります。よくがんばりましたねぇ。

     古市 日限地蔵御詠歌

         蛭子山  ふもとの里の  すゑながく
                  たから ふるいち  守らざらなん