戦中の記憶
耐乏生活が押し寄せてきました。 『米穀管理規則』が公布になり、米や麦が国家で管理されるようになりました。配給制が実施され『食管法』へと続いていきます。パーマネントの禁止や学生の長髪の禁止(丸刈りにすること)も実施され「日の丸弁当」(飯の真ん中に梅干し1個……日の丸のデザインに似ているから)の生活が奨励されました。 砂糖・マッチが配給統制になり、砂糖は一人一ヶ月に300g、マッチは一人一日に5本でした。昔の「火打ち石」が復活したそうです。 国民服が制定され、祭典や儀式にも儀礼章をつけて礼服としても扱いました。ゲートルを巻き、戦闘帽をかぶるのが通常となっていきましたし、女性はモンペが常用されることとなりました。 紀元二千六百年という歌が大流行しました。詞も曲も公募によるもので、1万8000以上の応募作の中から選ばれたそうです。軽快なメロディーは、一方での耐乏生活を耐えていく力となったのかも知れません。
お隣の住山地区には、舞鶴爆撃の帰り道に、上空を通ったB29が、残った焼夷弾を落としていきました。勤労動員・竹槍・食糧増産・松根油・学徒動員……。そうして月日が経っていく内に、やがて戦争が終わりました。 古市にも戦死者が出ました。15家庭が戦没者の遺族となってしまいました。そして今も校区の「戦没者追悼式」が続けられています。
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