古市昔話−1−

蛭子様騒動


古市の蛭子神社 昔々、天文年間の頃、村人に、『私は蛭子の神である。私を村に迎えてお祀りしなさい』と、神様からお告げがありました。翌朝、村の南東へ300bほど行った谷の清水岩という大きな石の上に何やら神様の様な形をした石像がありました。『エビス様のようだ』と村人が言い、これを持ち帰ってお祀りすることにしました。エビス様が出てきたところなので、村人はその後この谷を「蛭子谷」と呼ぶようになりました。

 エビス様を持ち帰って道端の石の上に置いてお参りしていましたら、村が大層繁盛するようになりました。村人は忙しく動き回って商売に精を出していましたから、ついつい石のエビス様のことを忘れてしまいました。

 10年ほども経ったのでしょうか、気がつくと村が少しさびれ始めていました。人通りも少なくなって、商売の売り上げも落ちていたのです。

 ふと気がつくと、今まで道端に置いてあった石のエビス様が無くなっていました。その頃、大和の国の丹波市というところが大層繁盛しているということが伝わってきました。旅人の話では、『エビス様を祀ったら、村が大層繁盛するようになった』と言うのです。

天理市丹波市の町並 そこで古市の村人数人が丹波市へ行ってみることにしました。丹波市へ行くと、古市で祀っていたエビス様が道端に祀ってありました。夜になって、古市の村人はこっそりエビス様を持って帰ったのです。

 村に着いて、再び同じ場所にエビス様をお祀りしたところ、村は再び賑やかに商売が行われ、活気に満ちあふれた村になって行きました。一方、丹波市はなぜか商売がうまく行かず、気がついてみるとエビス様が無くなっていたのです。『さびれ始めていた丹波の古市が、今また賑やかに商売が繰り広げられている』という旅人の話が丹波市の人に伝わりました。

 丹波市の人は、『さては取り返されたのでは・・・』と、古市を訪れると、案の定、道端に以前と同じようにエビス様が祀られていたのです。またもや、夜陰に乗じてエビス様を抱えて丹波市へ戻りました。

 すると不思議なことに、エビス様のいなくなった丹波の古市はさびれ始め、大和の国の丹波市は再び活況が戻ってきたのです。古市の村人がやっと気づいて、もう一度丹波市へ出かけていきました。また取り戻せると思ったのでしょう。しかし、丹波市へ到着してみると、エビス様は町の一角に境内を構え、立派な祠の中にお祀りしてありました。祠には鍵がかけられており、もう取り戻すことはできませんでした。

天理市丹波市の蛭子神社 仕方なくトボトボと古市の村人は丹波に帰ってきたのです。『エビス様は商売の神様。古市は商売の村ですから、エビス様をお祀りしなくては・・・』と、寺の住職に頼んでエビス様を彫ってもらうことになりました。そして今度は誰にも盗られないようにと、2尺(60p)四方の祠に入れてお祀りすることになりました。その場所は、現在の庚申池の側に立っている常夜灯のある場所でした。

 江戸時代の終わり頃、嘉永年間には、エビス様は宗玄寺の参道の脇の寺屋敷のあった所に引っ越しになりました。現在の場所は古市蛭子神社御影元々二つの土地に分かれていました。北側は空き地で、南側には屋敷が建っていて、その屋敷で使用していた井戸が今も蛭子神社の境内の真ん中に残っています。

 明治29年(1896)に、二つの土地をあわせた上に現在の蛭子神社を建てることになり、翌年の明治30年に完成しました。そして今も1月10日には十日戎のお祭りが続けられています。昔はたくさんの商家が軒を連ねていて、十日戎のお祭りも大きなイベントとして商売に反映していましたが、今は商家も少なくなってしまいました。

 古市に伝わる蛭子の騒動の物語は、全国あちこちにもあるようです。

天文年間 1532〜1555 この頃、やっと人が古市に住み始めたと考えられます。人口は十人程度ではなかったかと思われます。
エビス様 エビスは戎・恵比寿・夷・蛭子といろいろの字が使われますが、古事記に出てくる蛭子とインド・中国の七副神の神様の恵比寿・夷がやがて一緒に扱われるようになったと考えられます。古市に関する古文書にも、いろいろな字が使われています。
蛭子は「事代神」といわれていますので、鯛を抱えて釣り竿を持っている形ではないと思うのですが、古市の蛭子様(事代神)といわれています。御影という印刷したご神体が十日戎に売られますが、その姿は鯛を抱えて釣り竿を持っている形です。もう50〜60年以上もの間、見てはいけないと言われて、誰も実物を見た人はいませんので、残念ながら真偽のほどはわかりません。
庚申池 現在、庚申さんが祀られている境内地の前にある池。かつては農業用の溜め池で、「蛭子池」と呼ばれていました。
丹波市 現在は天理市丹波市という所で、昔の街道筋の商家が建ち並んでいます。
蛭子神社境内 明治18年には、古市字南側55番地宅地、56番地蛭子社と『字限図』に表記されています。その頃は、まだ2尺四方の小さな祠です。「嘉永七年」と刻まれた石灯籠が残っています。
嘉永時代 幕末も近くなった1848〜1854の時代です。ぺりーの来航や黒船の来航など、幕藩体制が大きく揺らいでいく時代です。
合祀の小社 秋葉さんと春日さんと天神さんが小社として祀られていますが、いつから祀られ始めたかは定かではありません。天神さんは大正4年に天神山から移されたものであるという木札が祠の中に保管されています。明治時代にはこれらの三社は無かったものと思われます。
伝承の根拠 口伝の伝承と、『篠山領地誌』、『多紀郡明細記』、『篠山封疆志』、『宝暦八年』、『丹波志』、『明治18年古市村字限図』等によりました。