宿場町だよ 古市の里 ヨイヨイ
遠く義経 通る町
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鵯越の源平の戦の時、源義経の一軍が京都から鵯越に向かって古市を通ったと伝えられています。古市の近辺には義経にまつわる伝承の地や話が伝えられています。 |
軒を連ねて 百軒店が ヨイヨイ
品もよりどり みな揃う
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江戸期から昭和中期にかけて、古市は宿場として、また物流の拠点としてほとんどの種類の商売が軒を連ねていました。 |
伊能忠敬 測量隊は ヨイヨイ
ここを起点に 道測る
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この地での伊能忠敬の測量は、有馬・播磨への分岐点である古市の三叉路の制札場前を起点として実施されました。また、古市の本陣に宿泊しました。今も大きな道標と古い千村道路原票が残されています。 |
塩は赤穂の 名産なれど ヨイヨイ
ここを通らにゃ ご禁制
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篠山藩に入ってくる塩は、藩の公許で古市の問屋が一手に引き受けていました。いわば藩の通関体制が取られていたといえます。 |
丹波茶所 八十八夜 ヨイヨイ
古市問屋が 関所守
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丹波でとれるお茶の葉についても、古市の問屋を通して輸出されていました。しかし、大阪のお茶屋が農家との直接取引を行うなど、度々紛争が起こりました。 |
蛸はうまいか 古市の蛸 ヨイヨイ
見頃食頃 味所
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明石で捕れた蛸は天秤棒で担いで篠山へ運ばれて来ました。古市を通過する頃が一番味の良い時間だったということです。 |
王地山焼 元祖はここよ ヨイヨイ
古市青磁の 窯の跡
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古市の山から良質な磁器用の土が産出し、有名な職人を招き青磁を焼いて、事業を拡大していました。後に篠山の王地焼きとして移っていきました。 |
年が明けたら 笹持っておいで ヨイヨイ
十日戎が 福をよぶ
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今も1月10日には十日戎が催され、吉兆が売られています。 |
宿場通れば 芸者が招く ヨイヨイ
宿の亭主も また招く
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町は朝から 三味線づくし ヨイヨイ
宿の亭主も 浮かれ出る
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宿場町はまた繁華街でもありました。多くの料亭が繁盛し、旅ゆく人たちの娯楽の場でもあったのです。 |
赤穂浪士の 不破数右衛門 ヨイヨイ
町のゆかりの 一人なり
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不破数右衛門の実父母が数右衛門の子ども二人とともに古市で晩年を過ごしました。討ち入り前に、数右衛門は密かに父母に面会し、後に遺品も届けられました。 |
うなぎ喰って行け 横屋のうなぎ ヨイヨイ
ホベタ落ちても わしゃ知らぬ
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横久旅館のうなぎは篠山の名物として、遠くからわざわざ食べに来る人も多くいました。 |
地蔵盆だよ みな来て踊れ ヨイヨイ
踊り踊って 夜が更ける
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8月24日には地蔵盆が催され、造り物、や盆踊りで大層にぎわいました。今も地蔵盆が続けられています。 |
愛宕様なら 火伏のほとけ ヨイヨイ
山にゆらゆら 松明が
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8月24日の夕方には、山の頂にある愛宕者に松明を持って登り、たくさんの松明が供えられましたが、今では山へ登らずに、麓で行事が行われています。 |
二十六夜は 煩悩山で ヨイヨイ
出ずるお月様 ほとけ様
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8月26日には「二十六夜待ち」という26夜の月を待つ信仰行事が山の中腹で行われていました。近年は行われることが少なくなりました。 |
義士が練りゆく 晦日の町を ヨイヨイ
赤穂浪士の 宿場町
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昭和の初め頃から、義士祭が開催されるようになり、今も子ども義士行列の行事が続けられています。 |
エビス様だよ 清水の岩に ヨイヨイ
鎮座まします 守り神
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天文年間に村の南東の谷にある清水岩の上で、エビスの石像が発見され、面白い逸話を残しながら、今の蛭子神社へと伝わっています。 |
地蔵さまだよ 日限りの地蔵 ヨイヨイ
願い叶えて 五百年
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古市のお地蔵様は「日限」を切って願をかけると叶うということで、今も遠くからお参りに来られます。日限地蔵は全国でも数少ないお地蔵様だと言われています。 |
二十五日は 天神様よ ヨイヨイ
回せ回せと 子がつどう
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7月25日は天親様のお祀りです。子ども達が全てを仕切り、「回せ回せこの石を・・・」とゲームをしたり、各戸から集めたお供え物の市をしたり、習字や絵画を供えて学問成就を祈るお祀りでした。少子化とともに、大人が手伝うようになって、伝統の内容が消えてしまいました。 |
道は播州 有馬や但馬 ヨイヨイ
旅の要は 古市よ
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古市は交通の要衝で、但馬・京都・大阪・播州方面への十字路でした。姫路〜園部間の鉄道の計画もありました。 |
丹波篠山 賑い一は ヨイヨイ
宿屋連なる 古市じゃ
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古市の活況は篠山藩随一ともいわれました。しかし、世界恐慌や交通網の変化、やがては郊外型スーパーの出現などにより、急速に経済活動が縮小していったのです。 |
谷に残れし 鍬形石に ヨイヨイ
偲ぶ昔の 鑿の跡
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村の南東の蛭子谷に鍬の形が彫られた大きな石がありました。人々はこれを「鍬形石」と呼び、その地を「鍬形」とも呼びました。篠山城築城の歳の石材として確保したものの、使用されずに残されたものと思われます。 |
汽車が通るよ 煙を吐いて ヨイヨイ
常サ残した 鉄の道
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明治32年、阪鶴鉄道(現在のJR福知山線)が古市を通って開通しました。鉄道用地の多くを小林常三郎が提供し、古市を鉄道が通ることとなったのです。 |
佐藤栄作 本荘繁 ヨイヨイ
残る話に 花が咲く
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当時大阪鉄道局長だった佐藤栄作や陸軍大将本荘繁が古市に寄寓していました。鉄道局長の通勤のため、2等車が連結されて走っていました。 |
丹波来たなら ちょと寄ってござれ ヨイヨイ
あなた待ってる 常夜灯
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明治2年、村の安全祈願のために大きな石の常夜灯が作られました。今も夜には電気が灯り風情を楽しむことが出来ます。 |
床に掛け軸 達磨がにらむ ヨイヨイ
石川丈山 旅の宿
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江戸初期の漢詩の代表的人物である石川丈山(号:六六山人)が古市の宿に泊まり、その記念として達磨絵を残していきました。 |
人は去っても 名前を残す ヨイヨイ
山岡鉄舟 筆の跡
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虎は死んで皮を残し、人は死んで名を残す と、山岡鉄舟が旅の宿として古市に宿泊したときに書き残しました。 |
加茂屋長兵衛 いなせな男 ヨイヨイ
舌を打つような 料理人
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江戸時代に加茂屋という大きな料理屋がありました。古市版「赤坂の料亭」といったところでしょうか。 |
磯志重左の お手柄なるは ヨイヨイ
問屋御免を 守りぬく
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江戸時代も度々規制解除の波がありました。問屋制度の存続に嘆願をだしました。 |
横屋又兵衛 菜種を絞り ヨイヨイ
油問屋を 取り仕切る
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篠山藩の油屋株のうち、人力株を持っていて、油屋の問屋の一つとして栄えました。 |
米屋治右衛門 宿屋の亭主 ヨイヨイ
歌人文人 引き寄せる。
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米屋旅館というのがありました。多くの俳人や画家が宿泊し、記念に書き残した物が残っています。 |
菱屋忠兵衛 律儀な男 ヨイヨイ
問屋束ねて 村繁昌
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忠兵衛は問屋仲間の一人でした。問屋が結束して経済を維持していました。 |
鍵屋三郎 男でごさる ヨイヨイ
村を起こして 寺建てる
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鍵屋の酒井三郎右衛門は、村の初めの頃、寺を建て、町興しに努めた大庄屋でした。 |
横屋休兵衛 稲荷を建てて ヨイヨイ
村の繁昌 祈りおり
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安政12年、休兵衛が石橋稲荷を起こし、今に伝えられています。 |
風呂屋ナカさん 看板娘 ヨイヨイ
娘見たさに 風呂へ行く
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明治の中頃、おナカさんという人が風呂屋を営んでいました。 |
平地蘭岳 古市生まれ ヨイヨイ
酒も飲む飲む 画も描く
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古市出身の画家、平地蘭岳は数多くの画を残しましたが、一方では大の酒好家でもありました。 |
相撲取りなら 熊蔵さんよ ヨイヨイ
百姓一揆に 加勢する。
明治2年の百姓一揆の先頭に立って筵旗を立てて加勢しました。 |
丸屋吉兵衛 初代の戸長 ヨイヨイ
文明開化の 音がする
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丸屋という旅館がありました。吉兵衛は廃藩置県後実質的な戸長に任命されました。 |
饅頭喰いたし 日進堂の ヨイヨイ
栗や最中の 餡恋し
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松尾山から 妙見堂を ヨイヨイ
尾根を伝って 持ち帰る
明治13年 松尾山の高仙寺から尾根づたいに妙見堂を持ち帰り祭りました。 |
村のはずれの つんころ峠 ヨイヨイ
あなた見守る 地蔵様
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つんころ峠=大石峠のこと。峠の地蔵様がお祀りしてあります。 |
丹波古市 寺子屋なれど ヨイヨイ
文武鍛えし 益習舎
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宗玄寺に寺子屋の益習舎がありました。明治になって古市尋常小学校、そして現在の古市小学校へと変遷していきました。 |
語りつがれた 昔の話 ヨイヨイ
次へ次へと 伝えゆく
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