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サマージャンボや年末ジャンボという宝くじがあって、一度ぐらいは一等に当たってみたいのですが、なかなか当たりません。その理由は、宝くじを買わないからです。(^_-) 宝くじは江戸時代にもあって、一等が当たったけれど、女房が「夢をみているのだ!」と押し切って、酒飲みの亭主をまじめに働かせるという落語があります。 江戸時代の宝くじは、神社仏閣の寄進を集めるためなどの理由で藩の役所に届けて許可を受ければ開くことが出来たと言われています。 その「富くじ」の抽選箱が古市の宗玄寺に残っています。 開催されたのは嘉永6年癸丑3月吉日(1853)となっています。何のために開催されたのかは、今のところ資料が出てきていませんので絶対的な確定は出来ませんが、傍証することは十分可能です。 富くじの催主は「古市駅中」とありますので、村が開催したものです。古市は宿場でしたから、宿駅の役目を担っており、「古市駅中」と言うことは「古市村」(今の古市自治会の範囲)ということになります。 安政3年(1856)に宗玄寺の本堂・庫裏が大層老朽化し、その修繕のための頼母子参拾人講の開催を寺社役所に宛てて願い出ていますが、願い人は檀家総代二名の連署になっています。 嘉永6年と安政3年はわずかに3年間の開きですから、寺の修繕のための富くじ開催とも考えられますが、この村の全てが宗玄寺の檀家ではなく、文政10年の宗旨人別帳を見ますと、宗玄寺檀家が31戸、その他の宗旨(天台・禅・法華)が36戸とありますから、「頼母子参拾人講」の数字はほぼ一致しますし、「古市駅中」として取り組んだものとは考えられません。 現存する唯一のもので、嘉永6年に限りなく近いものは、現在の蛭子神社の境内にある石燈篭です。これには、「嘉永七年寅二月」と建立された年月が刻み込まれています。(嘉永7年11月に安政元年と改元されています) 蛭子神社は、元は別の所に祠が建てられており、嘉永年間に現在の地に遷り、明治30年に今の大きさの境内地に広げられてきました。この富くじは、村をこぞって蛭子神社を遷宮し、二尺四方の祠を造営するためのものであったのではと推測したり、あるいは、最近発見したのは、「日限地蔵」の由緒ともなる古文書です。 「日限地蔵」の祠を建てるために募金をしたのではないかとも考えられます。たった一個の富くじ箱ですが、面白い想像がわいてくると同時に、何のために富くじをしたのかが箱に書いてないため、確かなことは解りませんが、蛭子神社か日限地蔵のどちらかに関わっていると思います。 |
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